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わからないということを、わからないままにしておきましょう。
大学の恩師の言葉だ。当時大学で写真を学んでいた僕にとって大辻清司氏は、宇宙人的で規定外でまるで別の世界にいらっしゃるように神々しく、氏の沈黙にすら意味を探していた。写真という世界の入り口で小さく身をかがめ、注意深く僕らの足元の少し先を照らしながら、言葉少なく導く妖精のような方だった。実際、師にお会いしていなければ今ある僕はない。月に一度の金曜日の講堂で、まるで秘密を打ち明けるかのようにそっと話されるその一語一句を、拾い集めるように必死でメモをとった。そして一年を通じてゆっくりと『自分の心で美しいと思うことの大切さ』を僕らは学び、写真に恋をした。幸福な時間だった。

今でも大切にしまっている講義ノートにこう記している。
花が美しいと世間で言っているから自分も美しいと思うのではない。美は絶対的な存在としてあるのではないのです。
そんなことこれまで誰が教えてくれたろう。衝撃だった。そのメモに纏わるエピソードが忘れられない。
花の写真を美しいと思ったことがありませんでした。
ふと静かに仰った。心臓の高鳴りをを抑えきれなかった。講義の内容は『写真を撮る理由』だった。
若い頃、友人の秋山(庄太郎)くんが花の写真ばかり撮るのだけれども、その理由がわからなかったんです。僕は花が写った写真よりも、花そのものに美を感じていたので。
沈黙。
でも最近になって僕が体験したあることで、彼のやっていたことが少しわかった気がしています。
師は当時(1990年〜1995年頃)、毎月、電車を乗り継ぎ、飛行機に乗って、福岡とご自宅の代々木上原を往復しながら教壇に立たれていた。

ある日いつものように大学での講義を終え、長い道のりの帰途の登ればご自宅という最後の坂が、散り始めの桜の花弁で埋めつくされていた。いつもなら移動の疲れで家でゆっくり休むところを、自宅に戻るやいなやカメラにカラーフィルムを装填し、気がつくと坂に戻り桜を写真に納めていたという。
あの時まさに『無意識』に僕は写真を撮り続けました。当時の秋山くんの花の写真を「嗚呼、わかるよ。これは花の美しさを捉えた写真だね」などとわかった気になって、その問題に解決済みの判を押して抽斗にしまい鍵をかけていたなら、そのように写真を撮ることはなかっただろうし、永遠にわからないままだったかもしれない。ずいぶんと時間はかかりましたが、その時初めて彼のやっていたことが身をもって、少しだけわかったような気がします。共鳴できたと思えたのです。
大辻清司談1990年度九州産業大学芸術学部写真学科1回生必須科目『写真芸術論』の講義にて
当時、師は70歳を超えておられた。おそらく40年近い『わからなさ』だったと想像する。それも『花を写真に撮る理由』という一生で一度も疑問すら持たないであろう問いについてだ。感服でしかない。無理してわかろうとせず『わからなさ』を受け入れて、一緒に携えて生きていく。そしていつか、明確に分かるのではなく、染みるようにわかる。強烈なリアリティがそこにはある気がする。
知識はいくら多く蓄えてもいい。多くてはいけないという理由は何もない。またその知識が血や肉となって、行動や観点の規範にまで育てるのは、まさに私たちが目指す目標なのである。だが、そのことが直接写真に現れるはずはない。何よりも無形の精神や思念が写真に写るはずがない。もし、そうした精神性が写真に反映するとしたら、そうした思想の持ち主が写した写真だとはっきり分かる写真としてである。そして写されるモノは、開放された無垢のこころに共鳴してくるなにものかであり、目に見えない気配であり、音のない言葉であり、そうしたこころの響きに促されて選ばれ、組み立てられた現実のモノが、実際の対象物となる。(中略)ほかの子が泣けば同じ悲しみが我が事となるように、きわめて自然に流れ入り、交流し、味わうこころの動きと、なんと似ていることだろう。こうした本音の響きこそ生きている意味との共鳴であり、写真を撮る理由であると思うのだが。
大辻清司著『写真ノート』より
あれから30年。僕はいまだにわからないものだらけだ。そして今日も師の言葉を胸に『わからなさ』について考えを巡らせていく。
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